Study10 in Philippine
+-- バターン死の行進 --+

ツアー三日目。一行は「バターン死の行進」戦跡および、博物館の見学のため、バターン半島サマット山へ向かう。

フィリピンは太平洋戦争時、最も激しい戦闘が行われた地域の一つです。日米の戦闘によりマニラをはじめとする都市部の大部分は焼失し、戦争の全期間を通じて111万人にのぼる民間人が死亡したと言われています。

1941年12月8日(現地時間7日)、日本軍は真珠湾を攻撃。太平洋戦争が勃発します。このパールハーバーの印象に比べて影が薄くなりがちですが、そのわずか10時間後、日本軍は在フィリピン米軍への空襲を行っています。

制空権を奪った日本軍は翌1月初めには首都マニラへと進駐。このとき米比連合軍が日本軍との決戦を避けてたてこもったのが、バターン半島とマニラ湾口のコレヒドール島です。

日本軍は総力戦で、4月9日、バターン半島を占領。5月7日にはコレヒドール島が陥落します。当時、極東米軍総司令官としてフィリピン防衛にあたっていたマッカーサーは、3月にオーストラリアへ脱出。この時彼が残した言葉「I shall return」は有名ですね。

こうして日本軍vs米比軍の戦争は終わりましたが、日本軍には大きな仕事が残されていました。捕虜となった米比軍人を、約60km離れた捕虜収容所まで移送しなくてはならなかったのです。この時行われたのが、後に日本軍による残虐行為の一つとして糾弾される「バターン死の行進」です。

この移送作戦の残虐性について語った資料はいくらでもあるでしょう(例えばこんなの)。炎天下の中、疫病と食糧不足と日本兵の虐待に苦しみながら、徒歩で10日間前後歩かされたのです。今でもバターンと言えば「Death March」との印象は、フィリピンの人々の中に深く残っています。

ただ、日本軍にとってもこの大移送作戦は“思いもかけぬもの”であったようです。日本軍の誤算、その代表的なものは、まず捕虜数が予想をはるかに超える人数であったこと。当初、「1万人余りの残敵掃討作戦」でないことは承知していたものの、戦いが終わりふたを開けてみれば、その数米軍だけで1万人以上、フィリピン兵を含めると8万人にものぼり、おまけに一般人数万人も一緒にろう城していたのです。当時の輸送技術ではこの人数を運ぶのは至難でした。
もう一つは、移送が始まる時すでに、米比軍の疲弊が激しかったこと。長期間のろう城のうちに、食糧は不足し、兵士の中には熱帯性の病気が蔓延していました。ほとんど全員がマラリアにかかっていたし、75%はコレラ患者だったと言います。

結局日本軍は輸送方法、食糧問題、医療問題に対して大した用意をすることはできませんでした。実際、日本兵約1万人への食糧供給もままならない状況だったようです。考えてみれば、60km程度の道程を7日から10日かけて歩いたと言いますから、1日長くても10km。普通に考えれば決して無理な行程ではありません。それが「非人道的扱い」となったのには上記のような背景がありました。

聞いた話ですが、移送中は日本兵もへとへとで監視の目を縫って逃げ出すことも難しくなかったとか、「木の根を食わされた」との捕虜の証言は実はゴボウだったとか、一般に言われている「Death March」の残虐性には多少の誇張があるようです。

かと言って正当化されるべきものではありませんが。



「I shall return」の言葉どおり、戻ってきたマッカーサー

銃口。博物館にて。