TRAVEL SKETCH in VIETNAM

No.4 ハノイの3ドル宿

旅にガイドブックは持っていかないことにしている。本に載っているものを確かめに行くような旅はしたくないからだ。同じような理由から、他人の書いた旅行記もほとんど読まない。一旅人としてのこだわりである。

ただし、このこだわりにはいくつかの例外条項が存在する。例えば、地図や国境情報、ビザ関係、物価や治安といった所謂「基本情報」に関してのみならば、ガイドブックの立ち読みを許す。また同様に「基本情報」に関しては、インターネットによる調査を許す。それから、「基本情報」の範疇を逸脱した「旅行記・観光案内等」に関しても、現地で出逢った人から直接仕入れるのであればおっけー。などなど、なんとも都合のいいポリシーである。


なんとかならなかった初日の長い夜が明けて、俺はバスでハノイへと向かった。10ドルのホテルは、シャワーは水だし主人は英語できないしで、値段の割によくない宿だった。かろうじてハノイ行きのバス停の場所を聞けたのが、今思えば不思議なぐらいだ。

20分ほどでハノイ到着。アジアらしい雑多な街並み。ほこりっぽい道路と、その上を洪水のように流れていく原付バイクの波。インドとも中国ともフィリピンとも、似ているけど違う。ベトナムという新しい匂いの中に、改めて俺は立った。

新しい町に来てまずすべきことは宿探しである。こういう町には安宿が集まった区画がたいていあるから、まずはそこまでたどり着きたい。

事前にネットからプリントアウトしていた地図と、旅人の勘を頼りに歩き回ること2時間近く。途中ハノイ駅を横に見ながら、とある湖に到着。ここがハノイ観光の中心として知られるホアンキエム湖だということは、後で知った。俺の勘も捨てたもんじゃない。

ここからが安宿探しの本番。とりあえず、適当なゲストハウスを見つけて入ってみる。値段を聞く。たいていちと高い。もっと安い宿はないかと聞く。ここで相手が親切な人ならちゃんと安い宿を教えてくれるから、そこでも値段を聞き、もっと安い宿はないかと聞く。これ以上安いところはないと言われても、とりあえず一回そこを出て、自分の足で探してみる。でまたもっと安いところはないかと聞く。この繰り返し。ベトナムでは最安一泊3ドルまであるから(場所によっては若干相場が高いところも)、そこにたどり着くまで続ける。ハノイでは三軒目で3ドル宿に到着。迷わずチェックイン。

ベトナムのホテルのシステムは変わっている。チェックインするときにパスポートを預けなければならないのだ。泊まっている間はずっとホテルが保管して、チェックアウトするときに返される。初日に警察からパスポートの提示を求められている俺としては、それなしで外を出歩くのはどうにも不安であったが、聞くと、夕方に警察がチェックしに来るのだと言う。俺が初めて社会主義国家を実感したときであった。

ホアンキエム湖から徒歩二分のこの宿には主人と奥さんとはいはい歩きの子供が一人、バイトの若者が2,3人といった感じ。部屋はお世辞にも清潔とは言えないし、もちろんシャワーからお湯は出ない。窓もなく薄暗いじめじめした部屋でじっとしているのは苦痛なので、用もないのに外に出る。明るいうちは湖の周りで本を読み、日が暮れてくると夜の旧市街をしばらくぶらついて、屋台で晩飯を食い、宿に戻る。宿の一階はレストランになっている。特に繁盛している様子はない。観光客用に洋食も出すが、高いので俺は食べない。食べないが、部屋に戻ってもすることはないので、狭いレストランの、入り口から一番遠い席に陣取って、ぼーっとするか小説を読む。と、フロントに日本語のガイドブックがあるのを見つけた。手にとってみる。「個人旅行」昭文社。日本で「地球の歩き方」の次ぐらいによく見かけるガイドブックである。暇つぶしにぱらぱらページをめくってみる。このとき初めて、ハノイの全体像を眺め、自分がどこにいるのかを確認したのだった。

「よかったらその本売ってあげますよ」

ん?

「3ドルで。どうです?」

話し掛けてきたのは宿の主人だった。3ドルで?このガイドブックを?俺は裏表紙を確認した。「1,750円」。3ドルと言ったら約300円だ。これは、安い。いやしかしまて、俺にはガイドブックは持たないというポリシーが・・・。

「それがあればあなたも助かるし、私も嬉しい。日本語読めないからね。」

た、確かに。それに、これはあの例外条項には当てはまるのではないだろうか。だって立派に「現地で仕入れた情報」だろ。

俺の頭の中で、例外条項をめぐる熱い議論が交わされていた。ガイドブックは持たないという大原則はどうなる。持ってても「基本情報」のページだけ見るようにするというのはどうか。安定した情報源がないとまた初日みたいなことになる危険性が・・・・・・

議論はまとまらなかった。行き詰まった俺の脳細胞たちはある決断を下した。ギャンブルである。

「2ドルでどうですか?」

俺は主人に聞いた。これで主人がまけてくれたら、買おう。3ドルをゆずらなかったら、買わない。俺はこの無責任なゲームに全てをゆだねた。

「いいよ」

え。

あ、そうですか。じゃあ、いただきます。いやー助かっちゃったなぁっはっはっは。ありがとうございますぅ。

・・・

かくて、旅人は誇りを捨てたのでありました。